大正10年に初代 土屋新平によって開かれた「土屋灸療院」から土屋灸術院ははじまりました。土屋灸術院の歴史
About us
土屋灸術院のご案内
大正10年(1921年)4月19日 |
初代 土屋新平(祖父) 開業
当時は、土屋灸療院という名称でした。 |
昭和47年(1972年) |
2代目 土屋新(母)へ |
平成24年(2012年) |
3代目 土屋文子へ
予約診療を始める
現在、長女 土屋美月と二人で診療 |
土屋灸術院 家訓
先ず我家の名灸を施術に当たりては
聖者の如く心身共に明鏡の如き心構えを以て
私利私欲を滅却して患者に対し病原の起因を質し
現在の状態とを熟慮して筆を取り
更に過ちなからんことを期して灸穴を点じ
飽くまでも此灸によりて病魔を根治すとの信念を以て
施灸するを我家伝の秘法なれば
軽々しく点を付け施灸するを禁ず
土屋家初代新平記す
これは、昭和19年に初代祖父が記した「家訓」です。
2代目母、そして3代目私もこの家訓の精神を継承し、日々精進しているところです。
土屋灸術院の歴史 秘話
大正12年(1923年)9月1日 関東大震災が起こる
初代祖父が開業してから2年4ヶ月が過ぎ、ようやく都内からも患者さんが来始めたところへ、あの関東大震災が9月1日に起き、東京は焼け野原になり患者さんの足はパタリと途絶えました。その前日に初代祖父は、都内に出掛けたそうです。もし1日違っていたら、母も私もこの世に存在していないし、今の土屋灸術院はなかったことでしょう。その後は、震災の影響で経済も大打撃を受け、初代祖父もその影響を受けたのはいうまでもありません。
昭和の初め頃
昭和3年(1927年) |
金融恐慌起こる |
昭和5年(1929年) |
世界恐慌起こる |
昭和6年(1930年) |
昭和恐慌起こる |
このような時代の中で、初代祖父は苦労したのだよと言う話しは、母からよく聞かされてました。
初代祖父は出張治療もしていたそうです。月の前半(1日~15日)は自宅治療、後半(16日~月末まで)は出張治療と、木版にそのことが彫られています。「優待券」の木版までありました。今でいうクーポン券ですね。出張治療に出掛ける前に木版画で作ったちらしを何枚も刷る手伝いを母や母の妹はしたそうです。そのちらしを出張先の近所に配るためです。
近県は、東京都江戸川区西葛西まで出掛け、患者さんの家に1週間ほど滞在し近所の人たちにもお灸をすえたそうです。その他、埼玉県八潮市、埼玉県三郷市などにも出掛けた事は、初代祖父の時から今も来ている患者さんから聞きました。
遠くは静岡県まで出掛け、お寺のお堂でお灸をすえていたそうです。
2代目母は初代祖父が出張した時のお土産が目当てで、毎回列車の時刻を見計らっては馬橋の駅まで迎えに行っていたそうです。
ある時、初代祖父が2,3日帰って来なかったことがあったそうです。どうしたんだろうと、呑気に待っていたそうですが、後で聞くと2.26事件で列車が止まり、足止めを食らっていたんだとか。当時(昭和11年)は、馬橋の家には電話も無ければラジオも無いという境遇ですから、まさか東京でそんな大それたことが起こっているとは思いもしなかったということです。
平成24年3月
母が急逝しました。それまで母と2人3脚で診療していましたが、私1人での診療となるため予約診療に変更しました。
母が亡くなり落ち込んでいたときに不思議なことに、初代祖父の時の患者さんから予約の電話連絡をもらうのです。皆さん久しぶりの患者さんたちです。何人もです。不思議なことだと思いました。そして皆さんから初代祖父や2代目母の仕事ぶりを聞くことにより元気づけられたという思い出があり、今日に至ってます。きっと、祖父や母がその患者さんらを差し向けて頑張れ!とエールを送ってくれたのかもしれません。
その中の一人の方をご紹介します。
静岡県三島市のSさんという女性です。平成24年5月に再診。57年ぶりの来院でした。初診は昭和39年ごろ(当時15歳)。手術しなければ治らないといわれた蓄膿症を初代祖父に治してもらったというのです。今は、鼻で悩むことはありませんといいます。当時は熱海市初島からここ馬橋までお灸に来たそうです。なぜ土屋灸術院を知ったかというと、Sさんの父が仕事で静岡県三島に来ていたときに、初代祖父が三島に出張治療に来ていたそうです。その近所の女性が子宝に恵まれずに悩んでいたがお灸で妊娠して跡継ぎができたという話しを聞き、それでは我が娘の蓄膿症を治してもらいたいと思い、その家を訪ねたそうです。そのときはすでに「その先生は馬橋に帰ってしまったよ」と言われ、その人から土屋灸術院の住所を教えてもらい、父に連れられてここ馬橋に来たそうです。それがSさん15歳の時でした。そのSさんから初代祖父や2代目母の話を聞けて勇気づけられました。私にとっての初代祖父に対する記憶は、気難しくてあまりいい印象はありませんでしたが、今は、灸という仕事を通じて、初代祖父がとても近い存在になり、尊敬しています。
私はその当時、予約制に変更にするために診療案内や予約表の作成など毎晩、パソコンでの作業に追われていましたが、初代の木版印刷を見て、私の大変さは大したことではないのだなと思い、元気づけられた思いでした。Sさんの話から初代祖父や2代目母の築き上げた信用や信頼のおかげで、今の私がいるということを忘れてはならないと強く思った次第です。
※初代の祖父の事は、二代目母からはあまり話しを聞いていないので、兄や従兄弟、患者さんからの情報を集めて記しています。
土屋灸術院 こぼれ話 (初代から現在も通院されている患者さんの声)
まずは、私の母の話から始めなくてはなりません。
私の実家は埼玉県八潮市で家は農家でした。母は明治42年生まれです。昭和20年、母が34歳の時にリウマチを患い寝たきりになってしまいました。トイレにも行けないほど脚が痛くて歩けないのです。当時11歳だった私は『母ちゃんが寝付いてしまったら大変だ』と子供ながらに思っていました。父も母の具合の悪いのをみていろいろなことをしました。あちこちの病院に連れて行っても、何をしても治りません。桐の箱に入った高価な薬を飲むなど、身体に良いというものは全て試してみましたが良くなりませんでした。そんな時、埼玉県三郷市彦成の電気屋さんが訪ねて来て、「馬橋のお灸屋さんに行ってご覧なさい」と言われ、藁にもすがるおもいで土屋灸術院を訪ねました。昭和20年頃、当時、村には自動車というものをほとんどみかけませんでしたから、私の母は、父の運転する自転車の後ろにリヤカーを付けてそのリヤカーに乗って馬橋まで来たそうです。
1回、2回と来る度に良くなっていき、寝たきりで歩けなかったのが歩けるようになり、今度は父に草加駅まで送ってもらい、杖をつきながら電車に乗り、馬橋まで一人で行けるようになりました。また一年もしないうちに、田んぼに入れるようにもなりました。あの当時は今のように農業機械はなく手作業でしたから、母は田んぼに入って田植えが出来るようになるほど健康な人と同じに働けるようになったのはすごいことです。母はよく「私は土屋先生に助けられた」と度々、私たち兄弟に話してました。私は8人兄弟です。母はリウマチが治った後に2人出産しています。先々代のおじいちゃん先生が1泊で出張治療に何回か我が家に来てくれました。その時は母だけでなく近所の人たちも何人か集まってお灸をすえてもらったものでした。お灸が終わって、おじいちゃん先生が八潮から馬橋へ帰るときは、おじいちゃん先生が自ら自転車を運転し、私の姉が後ろに乗り、簡単にいうと2人乗りってことですね、流山線の流山駅まで行き、帰りは姉がその自転車を運転して家まで帰って来たそうです。あれから母は大病をすることなく亡くなる85歳まで元気に過ごしました。平成6年のことです。当時にしては長生きです。若い頃リウマチを患ったのにもかかわらず長生きしたのは、リウマチの発病を機にお灸をすえ続けたからかもしれません。私はその様に思うのです。
ここからは私の話です。私が土屋灸術院にお世話になったのは50年ほど前になります。先々代のおじいちゃん先生の時です。おじいちゃん先生の時に2,3回お世話になってます。洋裁の仕事で肩こりがひどかったからです。その後は2代目のお母さん先生にお世話になってます。今でも近所の人から「何でそんなに元気でいられるの?」と聞かれますが「これっていう薬は飲んでないし、そこらに売っている栄養剤ぐらいしか飲んでないのよ。だからお灸が効いているんだよ。お灸で血液をきれいにして循環をよくしてるからよ」と答えてます。今は3代目の文子先生にお世話になり、月に2回ぐらいお灸を続けて元気をもらっています。やっぱり私も母同様にお灸に助けられ感謝をしております。